みたき園、
創業と創業家の物語

Reported by 小林 奈穂子(みつばち社)

コミュニケーションデザインを専門とするふたりのユニット、みつばち社の1号。プランナー兼ライター。
みたき園ではWebサイトを手がけるほか、次の時代の園における相談相手として伴走中。

みたき園の創業は昭和47(1972)年。地元では代々知られた寺谷家でしたが、このころ事業で負債を抱え、傾いた家を立て直すために東京から呼び戻されたのが現社長の寺谷誠一郎でした。
真面目に通ったとはいえない大学を卒業して、地元に戻りたくない一心で職を求めた都内の専門学校に拾ってもらい、当初「雑用にも使えない奴だ」と言われました。しかし入学を志願する学生の減少という危機を、世間知らずが奏功してか人とは違うやり方で救う結果となり、一躍一目置かれる存在になった誠一郎。そうこうするうち、いよいよ窮地に立たされた実家に、長男として戻らざるをえなくなりました。27歳のときです。

世間知らずだから、
型破りなことができた

戻っては来たものの、いわゆるボンボン育ちの誠一郎には、何からどう手をつけたものかもわからない。実家で所有していた山を、何を考えるということなく歩いていたとき目に入った絶壁に、「ここに滝があって、眺めながら一杯やれたらいいだろうな」と思いつきます。それがみたき園のはじまりでした。
滝をきっかけに、現在のみたき園を構想したわけではありません。ただ滝が欲しくて、下に流れる川の水を汲み上げてつくろうと思ったにすぎなかったのです。思い立ったものの資金がなく、誠一郎は銀行に赴きます。唐突にも受付の女性に、「お金を貸してください」と切り出しました。一応担当者につないでくれはしましたが、「いい具合の絶壁がある。そこに滝を落として、眺めながら酒を飲みたい。お金を貸してください」との申し出は、当然ながら断られました。ところがこれも世間知らずゆえに、断られても断られても面談を求めて、毎朝銀行の入口で待つ誠一郎に根負けした当時の支店長さんが、遂に融資してくれました。そのお金をそのまま水道工事屋さんに持参して、「これで滝をつくってください」と依頼したのです。かくして半世紀以上経ったいまも見ることのできる、園内のあの滝は完成し、誠一郎の、ここでの最初の望みは実現しました。

あるとき、地元芦津の山菜を口にして、「これはおいしい」と唸った誠一郎は、滝をつくったこの場所に、山菜を食べさせる店を開いてはどうかと考えつきます。きちんと大工さんに依頼する資金はないので、どこかで不要になった資材ばかりを集め、まずは茶屋のようなものをつくりました。みたき園のシンボル的存在の母屋「草屋」は、近隣に打ち捨てられ、解体されることになっていた古民家を譲り受けて移築したものです。時代は高度成長期の終盤、スクラップ&ビルドが主流であり、近代的で都会的なものがもてはやされた日本において、このような田舎で山の中に古民家を持ってきて……などというのは、酔狂としか捉えられませんでした。
資金に乏しいのとは別の理由で、変哲のない山を、伐採も整地も最小限にとどめていまに続くみたき園の姿はつくられました。せせらぎに回る水車、囲炉裏の匂い、プロのそれではなく田舎の素朴な味。すべて創業者・寺谷誠一郎の感性と美学から生まれたものです。周囲の予想に反し、そのようなみたき園は徐々に人気を博してゆきました。ただ、家業が負った負債に対しては、焼け石に水でした。

「お金をもらってびっくりした」女将、
無我夢中の四半世紀

そのころみたき園では、誠一郎の母親が初代女将を名乗っていましたが、息子にして、「自分に輪をかけて浮世離れした人で、ここの切り盛りなどできるわけもない」と言わせる女性であったため、実質的には親族ではない支配人夫妻が動かしていました。
お見合いで、姫路から嫁いできた現女将・寺谷節子はというと、こちらも負けず劣らずの世間知らずでした。寺谷家の多額の負債を知って驚きはしたものの、「私の実家も似たようなものだったので」と、すぐにそういうものだと受け止めたといいます。一方、ここ芦津の人たちの暮らし方、働き方には、「生きるってこういうことなん?」と、新鮮な憧れを抱くも、自らみたき園をやろうとは、まるで考えませんでした。ところが信頼していた支配人が病に倒れ、時を同じくして誠一郎に、智頭町長選に出る話が持ち上がります。代々土建屋さんが就くのが慣例化していた町長職への挑戦は本人が言い出したことではなく、打診されても露ほども受けるつもりのなかった誠一郎。背中を押したのは節子でした。「寺谷誠一郎は損得に左右されない人。この人の良さを発揮できる仕事だと思ったんです。『持てる力を全部使って、町の役に立ってください』と言いました」。
改革を望んでいた町民が多かったのでしょう、1997(平成9)年の選挙で当選し、誠一郎はそれから延べ20年にわたり、町長を務めることになりました。

町長就任にあたり誠一郎は節子に、「みたき園は、やめてもいいし、あなたの好きにして構わない」と言いました。節子の返事は、「本当に、好きにしていいんですね?」でした。「人の来ないお店にしたい」と言い出したので、さすがの誠一郎も面食らったといいます。
それまで出していた、山菜の小鉢を付けたおうどんの定食のような料理をあらため、全体に大きく質を高めたいと節子は考えました。そして、大勢の団体が押し寄せるのではなく、ゆったりと味わえる場所にと。
そうかといって、経験のない節子です。初めてお客様から代金を受け取ったときは、「もう、びっくりして」動揺したというほど、お金のやり取りにも慣れていませんでした。いただいたお金に値するものを、「どうやって、お客様にお返ししていこう」とばかり考える、節子の四半世紀を超える女将業は、このときから始まりました。
「人の来ない店」を思い描いた節子でしたが、関西の旅行代理店が団体旅行のコースに積極的に入れてくれたこともあり、みたき園には当時、大型バスが絶えませんでした。お客様への気持ちと、誠一郎が重責を果たすことに邁進できるよう留守を守らなくてはならないという気持ちとで、節子は無我夢中でした。大変だとか、疲れたと感じる余裕もなく、一途に走り続けました。その日々をいまは、「私はお役に立てる場を与えてもらった」と振り返ります。ただひとつ、昭和57(1982)年にやっと授かった一人娘の亜希子には、さみしい思いをさせたと悔やみました。

生みの親は誠一郎、育ての親は節子、
守り進化させる亜希子

一方の亜希子は、愛着の深い家業を、徐々に手伝うようになってゆきました。一般企業への就職と結婚を経て、いまは子育てをしながら、若女将として次のみたき園を担う存在です。
誠一郎は2020年の退任まで、数々の改革を行い、「お待たせしました。いよいよ田舎の出番です」の言葉と共に、まちづくりの象徴として町外にも知られる首長となりました。その間、年齢を重ね、引退も見えてきた節子と共に、みたき園に幕を下ろすか、人手に渡すか話していたとき、「私に継がせてほしい」と熱心に両親を説得したのが亜希子です
みたき園をつくった誠一郎、育てた節子、受け継いだ亜希子。「一番ここを愛しているのは亜希子」と両親に言わしめる若女将には、「みたき園という、両親がつくってくれたふるさとをしっかりと受け継いで、お客様はもちろん、スタッフも、その家族も、関わるみんなをしあわせにできるような、さらに豊かな場所にする」という夢があります。「ここを思って一緒にやってくれる大切な仲間と、力を合わせていきたい」。
幸い、女将の奔走により、先代からの負債はおおよそ解消され、コロナ禍の危機をも乗り越えることができました。誠一郎は、「奇跡のようなもの。自分がやっていたらまず無理だった」と節子への感謝を語り、その上で、「次のみたき園は、次の者が考えればいい。自分たちの要望が制約になってはいけない」と。女将の節子は、「みたき園は、寺谷誠一郎だからできたものだけど、同時に、自然からのいただきもの。だからみんなのもの」と語ります。
令和7(2025)年、誕生から53年を数えるみたき園の物語は、これからも続いてゆきます。

※これらのエピソードは、「若女将のインタビュー」に詳しいです。

「いまはお魚を焼いています」

20年も町長を務めれば、地元で知られた顔です。「あれ、前の町長じゃない?魚焼いてる!」。みたき園を訪れた方が、厨房に立つ誠一郎を見つけてそう話しているのが耳に入ったとき、誠一郎は「恥ずかしい」と思いました。町長を退任してスーツを脱ぎ、ここで魚を焼くことに、自身の中でギャップを感じていたわけではありません。でもそのときは、複雑な気持ちになったのです。それがある日掛けられた、「お魚おいしかった!」の一言がうれしくて、一気に吹っ切れました。
町長時代は町のためだけを考えて、いまはお客様のためだけを考えて仕事をしている。何の違いもないのです。その日を境に、恥ずかしいとは一切思わなくなりました。見習いから始めたお魚焼き担当も板につき、「成長を感じる」誠一郎社長には、もう一つ主担当があります。それはコッコちゃん係。生き物好きの自身が園内に放つことを発案し、長年お客様にも愛されてきたチャボたちのことです。日々のお世話はもとより、ヒヨコが孵ると、園内デビューしたときに人見知りしないよう、早くから教育をほどこす(?)重要な役割です。